『わけあり物件』 2/5
[平日夕方に小説が届くニュースレター。月曜から金曜の全5話で完結する奇妙な物語です。土曜日には、一気読みできる記事を配信します。メールドレスを登録いただくと毎号メールで届くので、続きを見逃さずに読むことができます。今日もお疲れ様でした。一日の終わりに一話いかがですか?
数週間後村本と若林はタクシーに乗っていた。不動産屋に例の物件について問い合わせたところ喜んで住まわせてくれることになった。事件以来誰も入居しなかったらしい。確かにその物件は駅から離れた辺鄙な場所にあり家賃は安いが苦学生ですら住もうとは思わないほど老朽化している。
タクシーから飛び出すように降りた若林は肩からぶら下げた鞄からデジタルカメラを取り出し、夢中でシャッターを切り始めた。
「私はすぐに戻るので少し待っててください」
村本は運転手にそう伝え、ため息を吐いて若林のそばへ駆け寄った。
「ここか~。凄いよ村本さん。ここ。まだ入ってもないのにゾッとくるね、何か感じるものがあるよ」
村本の気持ちとは反対に若林は目を輝かせ少年のような顔をしている。
「そうですか……それは良かったですね」
何が悲しくてベストセラー作家がこんなワンルームのボロアパートに住まなければならないのか。この業界、変わった人間は多く見てきたが若林ほどの人間を見るのは初めてだった。この創作に対する並外れた情熱が更なる傑作を生み出したる由縁なのだろう。
「引っ越しの手続きももう済ませたので、夕方には荷物も届くはずですよ」
「ありがとう村本さん」
若林は村本の声にただ反射的に答えているだけで、視線と心はもうこの部屋に奪われている。
「では、また何かあったら連絡下さい」
「はい……」
村本は再びため息を吐きタクシーへと戻った。
「神保町方面へお願いします」
村本は窓から若林の後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。それが生きている若林の姿を見た最後だった。1ヶ月後のニュースで、ベストセラー作家の若林俊明の訃報が報じられた。
「若林さん!!若林さん……どうして……」
村本は訃報を聞いても実際に若林の死体を見るまでは信じていなかった。ベットで横たわる若林は今にでも起き上がってわがままを言い出しそうな顔をしている。
「心臓発作だと」
廊下で項垂れていた編集長が力なく言った。若林の部屋の隣の住人が、人が倒れたような大きな音がしたと119番通報したらしい。救急隊員が到着したときにはすでに若林は事切れていた。「あの物件だ……あの物件に何かある」
村本が編集者になったのはホラー小説が好きだったからではない。どちらかと言えば心に染み入る純文学を作りたいと考えていた。二年目に任された若林の担当を村本は一つの仕事として上から命じられるままにこなしていた。しかし若林の作品に対する常軌を逸した姿勢、情熱、魂にいつしか心を奪われ誰よりも早くその作品を読めること、そして世の中に発信することを誇りに感じるようになっていた。作家自身は困った人間でも生み出す作品が素晴らしければ、どうしても魅了的な人間に見えてしまう。村本はなんだかんだ言って、若林のことが人間として好きだった。
「……そうだ。作品は?作品はどうなったのだろう?」
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