『リユース』 ※一気読み
[隔週の平日夕方に小説が届くニュースレター。月曜から金曜の全5話で完結する奇妙な物語です。土曜日には、一気読みできる記事を配信します。メールドレスを登録いただくと毎号メールで届くので、続きを見逃さずに読むことができます。今日もお疲れ様でした。一日の終わりに一話いかがですか?]
「うまいな」
「仕事場の上司がね、会社近くにある商店街のお店のお味噌が美味しいっていつも言ってるの。味噌なんていつも同じメーカーの安いものを使っているし、そんないいもの私には分からないって話したんだけどさ、それでも一回試してみてって」
「味噌ひとつでこんなに変わるものなんだな」
「ええ本当に。あなたが食事の感想を言うなんて滅多にないもの」
「そうだったか?」
「いいもの教えてもらっちゃった。今度からはこのお味噌にするわ」
「そうか。……おっといけない、もうこんな時間か……病院へ行かないと」
年に一度の精密検査が長引き、予定時刻のバスは既に出てしまっていた。
「次は……13分後か…」
五十嵐幹夫は腕時計と時刻表を交互に見つめ、ため息を吐き駅までの道を歩き始めた。そこは病院以外では訪れたことのない町で、駅前は少し賑わってはいたがチェーンの飲食店が数点並んでいるだけで、特にわざわざ何かを目的として降りるような駅ではなかった。幹夫は記憶を頼りに、30分以上はかかるであろう道のりを渋々歩き始めた。
一年前に交通事故に合い「もう通う必要はない」と何度も医者に話したが「何か変化があるかもしれないから」と諭され、退院した今も検診とリハビリ兼ねて一ヶ月に一度通院を続けている。
大通り沿いをまっすぐ歩きながら幹夫は昔のことを思い出す。妻の幸枝と知り合ったのは大学の演劇サークルだった。幹夫は特に役者を目指していたわけではないが、人数が少ないとサークル自体が消滅してしまうと友人に泣きつかれ、半ば強引に所属させられていた。そこに小道具として所属していたのが幸枝だった。幸枝は手先が器用で芝居で使う全ての小道具と衣装を一人で補っていた。
「所属するのはいいが、俺は人前には出ないぞ。そういうのは苦手なんだ」
そうは言ったものの、初めて参加したその日から幹夫は何かするわけでもなく幸枝に会うためだけに毎日顔を出すのだった。一目見ただけで美人で儚い雰囲気の幸枝に好意を抱いてたのだ。
二人が急接近したのは公演の前日。団員の一人が足をひねって怪我をした。幸い代役はすぐに見つかったものの、衣装のサイズが合わないという問題が発生した。そこで幹夫の家で幸枝と二人、徹夜で縫い直すことにしたのだ。異性に無頓着な幸枝は男の部屋で二人っきりで過ごすことに特に特別な思いは抱いていなかった。幹夫は緊張し幸枝がどんどん縫い上げ繋ぎ合わせていくのをただ見ているだけであった。
「ありがとう幹夫くん。私の家ミシンがなくて困ってたの。助かるわ。私のことは気にせず、眠ってね」
幸枝はミシンから目を離さずにそう言った。
「そういうわけにはいかないよ。俺も劇団員の一員だからね。朝まで付き合うさ」
幸枝は「ふふっ」と声をあげて笑い、続けて幹夫に質問した。
「男性の一人暮らしなのによくミシンなんてあったわね」
「形見なんだ。上京する前にお袋亡くなってしまってね。親父に頼んで、お袋が大事にしてたこいつをもらって上京したってわけ。まあ俺の家にあっても宝の持ち腐れだからさ、いつでも使いにきてくれよ」
幹夫が照れくさそうにそう言うと幸枝はミシンから目を離し、そのまま後ろの壁に寄りかかって座っている幹夫の方を振り返った。
「そうだったの。そうとは知らずにごめんなさい」
幸枝が悲しそうな顔をしたので幹夫は少し焦った。
「よせよ。とっくの昔に吹っ切れてるさ」
幸枝は作業を中断し、幹夫が出していたインスタントのコーヒーを一口飲んでゆっくり息を吐いた。
「幹夫くん、九十九神って知ってる?昔から物には魂が宿ると言われているの。人を惑わせる精霊が取り憑いた、だなんて言う人もいるのだけど、私はそうは思わない。大切にされればされるほど、持ち主の想いが念となって物に宿るんだと思う。このミシン、手入れされずに放置されていたのにとっても状態が良くて使いやすい。お母様、よっぽどこのミシン大事になさっていたのね」
幸枝からそんな神話というか、非科学的な話が飛び出すとは思っておらず幹夫は驚いた。
「九十九神ね……なるほど」
そんな一面もあるのだと驚いた、と同時になんだかおかしくて幹夫は少し吹き出してしまった。
「あ!笑った。信用してないでしょ? もう本当なんだから!」
「いやいや信じてる、信じてるよ」
朝までそんな不思議な話や、くだらない話をした。朝になって二人で眠い目を擦りながら大学へ行くと、仲間から昨日何があったんだと茶化されたが嬉しかった。幸枝もまんざらでもない顔をしていたように思う。
同じような風景が続き、本当に方向が合っているのかと心配になってきた頃、青と黄色が特徴の大きな建物が目に入った。行きのバスでも見かけたのを覚えている。どうやら方向は合っていたらしい。
平日の夕方だというのに、その店の駐車場には多くの車が並んでいる。店の前に掲げられた『お売りください』と書かれた旗が、車の勢いで大きく風に煽られている。店の壁には『パソコン』『オーディオ』『カメラ・時計』『ゲームソフト』『DVD・CD』『楽器』などの文字。どうやら買取、そして販売しているようだ。リユースショップとでもいうのであろうか。
幹夫はその店に、何か惹かれるものを感じ寄ってみることにした。入り口を抜けると中古品特有の匂いが鼻にまとわりついたが不思議と嫌な感じがしない。大きな音で特徴的なBGMが流れている。店内は思いのほか広さがあり、商品の種類ごとに場所がブロック分けされていて想像よりもすっきりとしている。商品が並べられたラックが壁の代わりとなり、店内にどのくらいの人がいるのか把握できない。駐車場の様子から多くの人が店内にひしめき合っていると思っていたが、周囲に気を取られることなく店内を物色できるようだ。すれ違う人のほとんどが幹夫と同い年くらいの中年の男性客で、そのほとんどが一人で来ているように見受けられた。一人一人が真剣な顔で何か商品を探し選んでいる。
一通り店内を見まわした幹夫はとあるコーナーで足を止めた。そのコーナーの入り口には大きく『JUNK』と書かれている。どうやら動くかどうかわからない動作未チェックの品が格安で販売されているようだった。ずらっと並んだ青い箱にこれでもかと言わんばかりに、ゲームソフトやCDなど多くの商品が詰め込まれている。皆ずっしりと重いその青い箱を器用に胸や膝で支え、中に入っているものをパタパタと物色している。いい大人がまるで宝探しでもしているように目を輝かせていたのがおかしかった。
『動かないポータブルミュージックプレイヤー』『前の持ち主の名が書かれたゲームソフト』『ケースが割れたCD』そのほとんどが興味のない人間にとってはゴミのように感じられてしまうかも知れない。幹夫は棚の上に置かれていた一つのカメラが気になった。動作未チェックと書かれているが、見た目にはどこも壊れているようには思えない。値札を見ると4300円と記されている。ネットの中古品の相場よりもかなり安い値段設定だ。カメラなんて趣味はなかったが、見ているだけで欲しくなるのだから、こんな時代になっても実店舗が繁盛するわけだ。幹夫はカメラを買うことにし、そのままレジへ向かおうとした。だがその瞬間、目の前が明るく光り輝き、幹夫は瞼を閉じる。
「うう……眩しい。これは……もしかして?」
幹夫の瞼の裏、いや頭の中にまるで映画でも見ているように映像が流れてきた。
青くどこまでも続く空が遠くで海とつながり広がっている。海水浴場の類ではなくどこか田舎町の海辺。どこからともなく若い男女の声が聞こえてくる。
「写真を撮らせてくれないか?」
「いやよ、恥ずかしい」
男はカメラを構えるがなかなか女はこちらを向いてくれない。白いワンピースに大きな麦わら帽をかぶり、そこから長い黒髪が流れている。
「大丈夫ですか?」
幹夫は店員のその言葉で我に帰った。こんな感覚は久しぶりだった。
「すみません、ちょっと立ちくらみがしただけです。あ、このカメラいただきます」
一年前幹夫と幸枝は休みの日の日課の散歩をしていた。近くのスーパーでお弁当を買う日もあれば、幸枝が手作りの弁当を用意することもあった。近くに子供が楽しめるような遊具こそないが小さな池と植木とベンチがある小さな公園あった。毎週そこでお昼ご飯を食べる。それが子宝に恵まれなかった二人のささやかな楽しみであった。
いつものように二人が座れるほどの、小さなレジャーシートを池のそばに敷き弁当を広げる。その日は幸枝特製のおにぎりと唐揚げ、卵焼きに水筒に入れた味噌汁だった。いつも食べているような、なんてことのないラインナップだが外で食べるとなんともうまいのだから不思議である。そんな何気ない日常が幹夫と幸枝にとっては幸せなことだった。
「あなた……写真とってくれない? ほらいいじゃない。こんなにも花が綺麗ですよ」
幸枝は嫌がる幹夫にスマホを渡し花の前でポーズをしてみせた。イタズラっぽく笑う幸枝を見て観念した幹夫はスマホのシャッターを切る。写真に映る幸枝はいつもに増して儚げな表情をしていた。
これからもずっと続くと思っていた。朝起きて仕事をして、くだらない話をして眠る。しかしそんな日常も、ささやかな幸せも突如として奪われることがあるのが人生なのかもしれない。
サイレンの音が頭の奥で聞こえる。
「五十嵐さん!五十嵐さん聞こえますか!?」
目を覚ますと幹夫は病院のベッドの上にいた。口には呼吸器が繋がれ息がしづらい。自分の体にいくつもの禍々しい管が繋がっていてまともに動くこともできない。何よりも不思議だったのがなぜ自分がここにいるのかが分からないということだった。「病院」「医者」「ベッド」「点滴」「呼吸器」次々目に入るものを認識することはできるが、自身のことがわからない。まるで頭にモヤがかかったように何も思い出せない。状況を整理するまで意識が戻ってからかなりの時間を費やした。
「あなたは五十嵐幹夫さん。1週間前に事故に遭い、この病院に運ばれました。当初は意識不明の重体でしたが、今は安定しています」
「事故? 俺は事故にあったんですか?」
ベッドの脇に置かれた所持品がほとんど原型をとどめていないことが事故の凄まじさを物語っていた。壊れた腕時計と、布切れになってしまった衣服のようなもの。至る所の皮が擦れて禿げてしまっている財布。その中に入っていたであろう、少しのお金と免許証。幹夫は力を振り絞りその免許証を手にとる。
「俺は……五十嵐幹夫?」
帰宅したときにはもう17時を回っていた。ずいぶんとさっきの店に長居してしまい、晩御飯を用意する時間がなかったので近くのコンビニにで弁当を買って帰った。幹夫は頭の中に流れ込んできたその女性のことがずっと気になっていた。
「仕事場の上司がね、会社近くにある商店街のお店のお味噌が美味しいっていつも言ってるの。味噌なんていつも同じメーカーの安いものを使っているし、そんないいもの私にはわからないって話したんだけどさ、それでも一回試してみろって」
「ちょっとごめん」
幹夫は弁当を食べるのをやめ、幸枝の声も早々に受け流し、自室へ籠った。またあの女性に会いたい。そのカメラに再び触れ目を瞑る。幹夫の願い通り、また眩い光がの瞼の裏を照らし再びあの二人の記憶が幹夫の頭の中に流れ込む。
古びたアパート。6畳ほどの一室で男女がコタツを挟んで向き合っている。
「俺さ。もうカメラマンになるのやめるよ」
男のその言葉を聞いた瞬間女はテーブルに突っ伏して泣き始めた。
「仕方のないことさ。もう俺もいい歳だから。このカメラだけど、バイト先の先輩にあげようと思うんだ。カメラマンを目指すことに理解を示してくれてさ、仕事のシフトかなり融通してもらったんだよね。そのお礼さ」
女はその言葉を聞いても泣き止まない。
「ごめん。応援してくれてたのに。こんな終わり方になってしまって」
それからしばらく泣き続け、ようやく息を整え、涙を漏らしながらも男に訴えた。
「私のせいなの?」
男はその言葉を聞いて少し考えはしたが、しばらくして真剣な面持ちで答えた。
「違うな。やめるのはただの俺の実力不足。あえていうなら君のせいではなく、君のおかげだよ。俺はね、君に教えてもらったんだ。夢を追うことよりも大切なことを。これからは平凡でいい、ただ毎日を静かに平凡に暮らしたい」
女は男の元へ行き胸に顔を埋める。
「いいの? 本当に?」
「ああ。ちゃんとした仕事も見つけてくる。だから……」
女は埋めていた顔をあげ男と見つめ合う。
「だから結婚してくれ、幸枝」
幹夫は目を覚ました。幹夫が見ていた記憶は自身の記憶だった。
「そうか……このカメラは俺が昔使っていたものだったのか、だから」
その感覚を幹夫は知っていた。事故後歩けるようになってから自身の色んな情報を教えてもらった。しかしどんなに衝撃的な事実を告げられても、記憶がないのだからそのときは驚きようがない。
はじめに戻った記憶は自分の好物が卵焼きだったということ。病院で出された卵焼きを口へ含んだ瞬間、眩い光と共に幼い頃に母が作ってくれた記憶が蘇った。
記憶がある程度戻り、普通の生活が徐々にできるようになった幹夫。そんな折、入院生活を終え自宅へと戻る運びとなった。脳を検査していくうち、まだ記憶があった頃に思い入れがあった物に触れるとどんどん記憶が戻っていくことが分かった。記憶障害は何かがきっかけで治ることがある。人それぞれだが、匂いや音楽、風景。時間が解決してくれることもある。幹夫の場合は思い出に触れることがそのきっかけになっていたのだ。
自宅へ帰ればそのほとんどの記憶が戻るだろうと医者は帰宅を許可した。しかし幹夫は自宅へ戻るのが怖かった。入院生活を続けていくうちに断片的に思い出していた、妻の記憶。これ以上思い出して悲しい気持ちになりたくないと恐れていたのだ。
自宅マンションがある駅を降りた時点で幹夫の目にはもうすでに涙が浮かんでいた。一歩歩くごとに一つ一つの思い出が蘇ってくる。見慣れた街並み、懐かしい風、幸枝と歩いた散歩道。心が壊れそうなほどの悲しみが幹夫を襲ってきた。
「なぜ俺はこんな大切なことを忘れていたんだ」
しかし募る悲しみとは引き換えに、歩くたび幹夫は気持ちを固めていく。思い出すことが、自分が幸枝の記憶を覚えておくことだけが幸枝の存在証明になる。
住んでいたマンションに到着し扉の前に立つ。幹夫は一度、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。扉を開いた瞬間、幹夫の目には今までで一番大きな光りに包まれた。幸枝との思い出が一気に蘇った。
「こんなことってあるんだな。もしかしたらあの店にまだ他にも俺が忘れてしまっている思い出がいくつかあるもしれないな」
幹夫は幸枝が眠る仏壇に向かって話しかける。綺麗な花の隣に笑顔で笑う幸枝の写真が飾られていた。幹夫はカメラをそっとその隣に置いた。リビングにある机の上には古びたミシンが置いてある。幹夫はそれにそっと触れる。
「昔から物には魂が宿ると言われているの。人を惑わせる精霊が取り憑いた、だなんて言う人もいるのだけど、私はそうは思わない。大切にされればされるほど、持ち主の想いが念となって物に籠るんだと思う。このミシン、手入れされずに放置されていたのにとっても状態が良くて使いやすい。お母様、よっぽどこのミシン大事にしていたのね」
幸枝の声が聞こえる。食卓に出しっぱなしの食器に触れるとまた違う時代の幸枝が語りかける。
「あら本当、美味しいわね。仕事場の上司がね、会社近くにある商店街のお味噌やの味噌が美味しいっていつも言ってるの。味噌なんていつも同じメーカーの安いものを使ってるし、そんないいもの私にはわからないって話したんだけどさ、一回試してみろって」
この部屋の至る場所に幸枝は存在し続けている。
時が経ちまた一ヶ月検診を終えた幹夫は大通り沿いを歩いていた。今回は予定通りの時刻に診察を終えたがバスには乗らなかった。幹夫が目指すのはあのリユースショップだ。その日は見つからなかったがそれからも幹夫は毎月そのリユースショップへ足を運ばせる。多くの人々の記憶がひしめき合う青い箱の中から、幸枝との思い出を探し続けるのだった。
終
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